渡る世間は結局ばかり
(水曜は言葉について)
昔テレビ番組で、脚本家の大石静さんと対談していたえなりかずきさんが「脚本で文末の言葉までセリフ覚えるのたいへんなんですよね」って言ったら、すかさず大石さんが「脚本家は文末にこそ命懸けてるのよ、あなた!」と語気を強めていました。
確かに会話の最初と最後って話し相手との関係性や話し手自身の雰囲気、会話の流れが如実に表れますよね。私も高校の時に国語の先生から、接続詞にこそ細心の注意をとよく言われました。
日常的に相手が話す言葉の選び方を気にして聞いてしまうのですが、話し始めに使われる「結局」って言葉、好きですか?私は多用されるのが苦手です。
結局を使う時、こんなニュアンスが相手から滲み出てきてる気がするんです。
- 過去を私の目線で見てみると〜
- この時の説明は飛ばすけど〜
編集が雑で、いつの間に主人公こんなに大きくなったの⁉︎と思う映画にたまに出くわしますが、それに近しい事が話の中で起きます。もしかしたら途中にあった出来事重要かもしれないじゃん、という受け手側の疑念は疑念のまま終わってしまいます。
- 不可抗力があったので〜
結局が使われる文脈で野心溢れる行動によって現状が改善されることは中々ありません。自分一人の力じゃなんとも…とお手上げ状態だと言わんばかりの渋々顏とセットで度々聞こえてきます。
3つとも使用者の受動的なスタンスが見え隠れしていて、幸楽の息子なら「そんな事言ったってしょうがないじゃないかぁ」という声が聞こえてきそうです。
「結局」は日々の記憶に切り口を作るには非常に有効です。どんな記憶かを端的に言え、という設問へ解答をするならば。でも一方で、大事な人との思い出や仕事での記憶を塊で持つことが難しくなってしまいます。
友達と一緒にご飯を食べに行った、好きな人と旅行に行った、と思い出の到達点を記憶の引き出しにしまうことも大切ですが、お店まで一緒に歩いた事とかその日の暑さ寒さの感じ方とか過程がすっごく楽しいんですよね。仕事でこうなったという顛末も今の自分じゃ把握しきれない様々な要因があったのかもしれないですよね。
「結局」とそれに続く話には、不純物のまとわるダイヤモンドをきれいにカッティングするような切れ味があります。でも一方で、言葉が発せられた瞬間どんな塊が切られ、どんな土が削がれたのかも頭の片隅で考えてみなくては、生きることも仕事もいつの間にか素っ気ないものになるやもしれません。
最近編集されたニュースやまとめサイトが手軽に見られ情報量の多さに食傷気味ですが、言うなれば世の中に「結局」が充満してるとも言えます。「結局」以前に思いを馳せてみると、情報社会での生活ももう少し健康的で味なものになるのではないか。ぜひ気にして聞いてみて下さいませ。以上