言の葉も光合成はしたいもの

言葉とか食べものとか絵画の話とか。

言葉から見つめる21世紀の仕事観

(水曜は言葉について)
これから20年後までに日本の労働人口の49%を占める職業が人工知能やロボットで代替可能になる。そんな話をご存知でしょうか?
野村総研とオックスフォード大の研究者との共同研究による推計ですが、現在の人工知能の加速度的進化・学習度からして全く絵空事ではありません。

ということで、今日は「ロボット」に焦点を当てます。ロボット(という言葉)は1920年に生まれました。誕生して100年も経ってないんですね、意外と若い。チェコの作家カレル・チャペックが自身の作品で、人の代わりに働く人造人間としてチェコ語で「労働」を表すrobotaから転じてrobotという語を使った事に由来します。
古代教会スラヴ語のrabotaがその語源で(ロシア語では今でもработа※読み方:ラボータ で「仕事、労働」を意味します)、「奴隷状態、隷属された中での苦役」が原義だそうです。つまり「ロボット」は「拘束された中での苦役を人に代わってやるモノ」が本来的な意味と言えます。


さて、rabotaはスラヴ語圏の北欧・東欧から西へ伝わり、日本人が誰もが知る単語としてゲルマン語圏で残りました。それは…"arbeit"
そう、アルバイトです。語幹にr,b,tが含まれていることに言葉の遺伝子を感じます。独語では色々な意味に分化し、「仕事、労働、業績」等を表します。最近のシリア問題における外国人労働者はgastarbeiter "ガストアルバイター"と言ったりします。

一方、日本でアルバイトと言えば、時間拘束されて時給をもらう学生さんとかのことですよね。明治期に独語を学んだ帝大生が家庭教師やらの仕事に対し洒落っ気もこめて使ったのが始まりだそうです。使用が限定され続けた為、アルバイトの日本語には「rabota=拘束された苦役」という本来的なニュアンスがそのままに保たれています。シベリアの広大な針葉樹林の中で生まれたのであろう言葉の核心が遠く小さな島国日本で残っている事に、言語の奥深さを感じずにはいられません。

21世紀の日本でrabotaにより結ばれる示唆。それは、21世紀において時間拘束を価値とするようなarbeitはrobotにより取ってかわる、と言うこと。時間拘束に対価を支払う仕事だけではありません。現時点価値があったとしても時間を掛けさえすれば人工知能がディープラーニング〔深層学習〕により習得出来てしまう仕事は代替されてしまいます。(先のリンク先には代替可能性が高い職業100が一覧化されています)

自戒も込めて言いますが、就活生は自分の競争相手が意識高い系の学生や隣に座っている学生だけでなく、寝る間もなく今も熱心に学習を続けるロボット・人工知能も既に重大なライバルであると認識しなくてはなりません。


21世紀の仕事観が大きく揺らぎそうな中、私は一つの言葉に希望を見出しています。ドイツ語にはarbeitの他にも仕事を表す言葉があります。"beruf" ベルーフです。 マックス・ウェバーの著書に『職業としての政治 "Politik als Beruf"』があるとおり、労働より職業の意味合いが強い単語です。元々の語はberufungで、英語ではcalling、日本語では召命を意味しています。
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バロック期の巨匠カラヴァッジョの傑作で『聖マタイの召命』がありますが、独語では"Berufung des Hl. Matthäus"と書きます。一筋の光による劇的効果が作品の最大の魅力ですが(好き過ぎてテンション上がってます)、スポットライトを浴びる感じ、そして右手にいるキリストに指をさされる感じこそがberufungです!
キリストがマタイを見つけ、「使徒として布教を行うのは君だ!」とドラマチックに一つの仕事が誕生しています。berufにはarbeitには無い、神に選ばれし天職という意味が内包されています。

思えば現代は人類史上最も職業選択の自由が広く享受されている時代です。それゆえ一人ひとりが「私は何故これを仕事にするのか?」とモチベーションの在り処を自問自答している時代でもあります。ロボットが自分と同じような仕事を出来るようになってきたらますます悩みは深まるでしょう。21世紀はヒトが働くにおいてarbeitからberufになる事を迫られる時代ではないかなと私は思っています。


21世紀における仕事観の予想される変化を、これまでの話から概観します。
  • アルバイトからの解放
   私たちが望もうが望むまいが、外的要因としてロボットにより労働力が代替される時代になってきました。時間拘束による価値は相対的に目減りしていくでしょう。翻って、他者やロボットがどんなに時間を掛けても、その人でしか創造出来ない代替不可能な価値がより大きな意味を持ちます。
 考えるほどに面白いのは、代替不可能な価値を生み出すためには大量の時間が必要であることです。速読出来るようになるためには沢山の本を読んで知識を得る事が重要、という話にも似ています。子供の時から長年愛着のあるぬいぐるみは捨てられない、という価値にも似ています。逆説的ですが、一見遠回りな長い時間の積み重ねが非常に大きな価値を生むはずです。

  • ベルーフによる内的満足
  この仕事を私がする必然性はあるのか?という深掘りを今まで以上に求められます。天職についている!と自身で動機付けすることが求められます。誰かの役に立っているという他者効力感は大切ですが、役に立っていると解釈できる源泉は自己効力感の他に無いでしょう。


言葉は生き物なので、使われなければ絶滅します。100年後、もしかしたら「アルバイト」は国語の辞書から消え、21世紀の遺産として古語辞典にだけ載っているかもしれません。かわって、皆が仕事を「ベルーフ」と言う時が来るかもしれません。
いや、時代の過渡期に生きる私たちが、まだ見ぬ未来の社会人とともに、自分たちの力でベルーフを創らなくちゃいけないですね。私の仕事は天職だ、と1人でも多くの人がスポットライトで照らされるような世の中にしないとね。

以上

文脈を決める、言葉のにおい

(水曜は言葉について)

『昨日の夜中に前付き合ってた女の子から電話がきて、とあるコンペ(賞金あり!)に協力してくれないかと誘われました。』実際そんな話無いです、すみません。あったとしましょう、これをちょっと言い換えてみます。

『昨日未明、元交際相手の女から金銭目的での話を持ち掛けられた。遊ぶ金ほしさからの勧誘であった。』

見方に偏りはあるものの、事実は変わっていません。さて、一気に犯罪めいてきたと思いませんか?

文章を解きほぐすべくもなく「未明」「元交際相手の女」「金銭目的」「遊ぶ金ほしさ」といった言葉の印象が決め手だなと分かります。ニュース、中でも事件報道という一定の文脈で見聞きしている言葉が散りばめられることで、ありきたりな事実のトーンが明らかに暗めの色に塗られます。私はこれ、「言葉のにおい」が文に移っちゃったと考えています。

言葉は家にある物と同じで、それぞれ収納場所が決まっているんですよね、きっと。「心安い」「衣紋掛け」みたいなちょいと古めかしい言葉はおばあちゃんの部屋の箪笥に、「ヤバい」「ウザい」は女子高生の孫娘の部屋に散在し、「愛してる」なんては大事だけど中々使わないから実印と一緒に金庫に、という感じです。そしてそれぞれ部屋ごとにどうしても独特のにおいがついちゃうんだと思うんです。

文章を書くのが上手な方って、言葉の収納場所とにおいを分かっていて、読み手がどんな気持ちになるのか香水を作る人のように自在に操れるのでしょう。逆に言えば、複数の部屋にある言葉を混ぜてにおい同士がぶつかっていたり、そもそも相手が好むにおいを発していないことに、言いたいことが伝わらない原因があるのではないでしょうか。
※私も少しずつ強い香りを抑えていきます、あしからず。
 
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思えば無駄にカタカナ英語を濫用する人、「鼻につく」って思いませんか。鼻につく、正ににおいにまつわる慣用句です。

言葉ににおいがあるという私の発想でさえ、よくよく考えてみれば先人達の残り香であったことに皮肉と奥深さを感じずにはいられませんでした。以上

心の緯度・経度

(土曜は内にこもった話を)

仕事をしていて、何か心に引っかかる時って進捗が良くないんですよね。あの人に電話したくないなぁとか、家に帰ってあれやらなくちゃとか。「気が進まない」ってのは進捗管理表作って仕事した昔の真面目な番頭さんが作った言葉なのではと思って止みません。

不安な感じが小さくても生活に影響あるのに、大きな不安だと動きは止まります。鬱は永久凍土、と加藤諦三さんが言ってましたが言い得て妙です。常々不安があって、その不安にまた次なる日々の不安が重なり万年雪のようになる。鬱って性格であると同時に生活習慣病なのでしょう。私もたまにヤバい時は心の雪かきしています。

さて、何とも暗い話ですが私自身これって19か20歳には解決すると思ってたんですよね。それが中々無くならない、たまに出てくる。で、どうしたものかと思ったんですが、鬱=永久凍土の話を最近聞いてから、今は緯度の高い所に住んでるのかー、と思うようになって楽になったんですよね。

地球上で赤道近くに住む人もいれば北極近くに住む人もいる、多分私は今回の人生雪が降りやすい地域にいるんですよね。そりゃあまり人が多くは住まない土地かもしれないけど、ここにはここで楽しみ方がある。平均気温が低いだけに身体が縮こまりやすいのだけど、家には暖炉があって暖まりやすい。リオのカーニバルのように沢山の人で歓喜する祭りは無いけれど、少ない人数で暖炉を囲んで深く話すには向いている。夏は短いけれど、陽射し輝く夏への思いは人一倍強い。
見栄を張るとか明るく振る舞うって寒いのに薄着してるのと同じで風邪引いてしまうんですよね、精神的に。

かえりみて、目の前の人がどこに住んで、どの季節を喜ぶのか?雪が降る事はある場所なのか?季節(性格)と服装(振る舞い方)が違って見えるけど風邪引きそうに(しんどく)ないか?一人ひとりが持つ季節感を見出したいなーと思っています。
心の住処、どこらへん?って人それぞれ置き換えてみると結構面白いですよ。以上

渡る世間は結局ばかり

(水曜は言葉について)

昔テレビ番組で、脚本家の大石静さんと対談していたえなりかずきさんが「脚本で文末の言葉までセリフ覚えるのたいへんなんですよね」って言ったら、すかさず大石さんが「脚本家は文末にこそ命懸けてるのよ、あなた!」と語気を強めていました。

確かに会話の最初と最後って話し相手との関係性や話し手自身の雰囲気、会話の流れが如実に表れますよね。私も高校の時に国語の先生から、接続詞にこそ細心の注意をとよく言われました。

日常的に相手が話す言葉の選び方を気にして聞いてしまうのですが、話し始めに使われる「結局」って言葉、好きですか?私は多用されるのが苦手です。

結局を使う時、こんなニュアンスが相手から滲み出てきてる気がするんです。

  • 過去を私の目線で見てみると〜
要するに、の多用にも同じ印象を持ちますが、多分に解釈が入ります。論理性を追求したような話し方でいて、実際聞いている方は記述に独自色が出過ぎたゴシップ誌を読んでいるような胡散臭さを感じるから不思議です。

  • この時の説明は飛ばすけど〜
編集が雑で、いつの間に主人公こんなに大きくなったの⁉︎と思う映画にたまに出くわしますが、それに近しい事が話の中で起きます。もしかしたら途中にあった出来事重要かもしれないじゃん、という受け手側の疑念は疑念のまま終わってしまいます。

  • 不可抗力があったので〜
結局が使われる文脈で野心溢れる行動によって現状が改善されることは中々ありません。自分一人の力じゃなんとも…とお手上げ状態だと言わんばかりの渋々顏とセットで度々聞こえてきます。

3つとも使用者の受動的なスタンスが見え隠れしていて、幸楽の息子なら「そんな事言ったってしょうがないじゃないかぁ」という声が聞こえてきそうです。
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「結局」は日々の記憶に切り口を作るには非常に有効です。どんな記憶かを端的に言え、という設問へ解答をするならば。でも一方で、大事な人との思い出や仕事での記憶を塊で持つことが難しくなってしまいます。
友達と一緒にご飯を食べに行った、好きな人と旅行に行った、と思い出の到達点を記憶の引き出しにしまうことも大切ですが、お店まで一緒に歩いた事とかその日の暑さ寒さの感じ方とか過程がすっごく楽しいんですよね。仕事でこうなったという顛末も今の自分じゃ把握しきれない様々な要因があったのかもしれないですよね。

「結局」とそれに続く話には、不純物のまとわるダイヤモンドをきれいにカッティングするような切れ味があります。でも一方で、言葉が発せられた瞬間どんな塊が切られ、どんな土が削がれたのかも頭の片隅で考えてみなくては、生きることも仕事もいつの間にか素っ気ないものになるやもしれません。

最近編集されたニュースやまとめサイトが手軽に見られ情報量の多さに食傷気味ですが、言うなれば世の中に「結局」が充満してるとも言えます。「結局」以前に思いを馳せてみると、情報社会での生活ももう少し健康的で味なものになるのではないか。ぜひ気にして聞いてみて下さいませ。以上

刃渡り4万kmのナイフ

好きな言葉は?と聞かれそうもない質問をされたら真っ先に答えたい、"pedantic"。


ペダンティックと言われても、はっ?みたいな感じだけど、日本語だと『衒学的、学をひけらかす』って意味。基本的に批判精神込みで「あいつ専門用語ばっかでいつもペダンティックな表現だよな」とか言うそうな。


さて、この例文まで見ると気付く事実。「pedantic使う奴、pedanticじゃねぇ!?」私が好きな理由、正にこれなんですよね。


批判って上から見下ろすように言い放つものなのに、見下ろした自らの眼差しでもって見下ろされている。エッシャーの階段の絵画みたいな不思議さがあるんですよね。


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人を切ろうとした刃でいつの間にか切られている。地球1周4万kmある刃渡りのナイフを振り下ろして、前の人を切ろうとした瞬間自分の頭に落ちてくるイメージ。多分pedanticを日常的に使うことが無いからこんな話が出来るのだけど、たった一つの言葉で想像力が膨らんで、フィクションが作れる。言葉の力は偉大だと思う。


という事で、これから言葉やら絵画やら食べ物やら好きな事を少しずつ書いていきます。以上